【 葛飾北斎(Katsushika Hokusai)】
1760年10月31日頃(宝暦10年9月23日)から 1849年5月10日(嘉永2年4月18日)の88歳まで生きた江戸後期の浮世絵師。日本の浮世絵師だけではなく西洋にも影響を与えジャポニズムなどの影響を残した。
『富嶽百景』初編は、葛飾北斎が74歳ごろに刊行した作品です。
【タイトル】富嶽百景(富岳百景) 初編
【著者】葛飾北斎
【出版者】永楽屋東四郎ほか
【刊行】天保5年(1834)
【原本】国立国会図書館
葛飾北斎の『富嶽百景』は、富士山をさまざまな場所や季節、人々の暮らしの中から描いた絵本です。全三編からなり、初編は天保5年(1834)3月に刊行され、柳亭種彦が序文を記しています。
このページでは、『富嶽百景』初編に収められた作品を原本画像とともに紹介し、序文の原文、読み、現代語訳も掲載しています。

原文
契沖が富士百首は突兀として顕れ
東潮が不二百句は綵雲にかくれて見えず
今新に百嶽を図するは前北斎翁也
此山や独立して衆峰の巓を出つ
翁の画も又独立して其名高き事
一千五百丈に過なむ
画帖諸国にわたり懐蔵する者最多し
豈十五州の壯観而巳ならむや
不二の十名を秘藏抄に載たり
先生屢名を改む
かぞへなば十名にも満べし
それかれ因あればにや
此岳を愛ること年あり
近く田子の浦に見あげ
三保か崎に望ば
隈なき月盛なる花のこゝちして
風情薄しとてか
遠く富士見原に杖をひき
汐見坂に駕をとゝめ
柳の絲になたれを透し
稲葉の戰ぎに高根を仰き
逆浪巖を碎くの大洋
白雲谷を埋る羊膓
嶮阻に上り危に下り
真景を寫されたれば
翁の精神此巻に止り
端山しげ山世にしけき画本の峯巓を
突兀と出む事
阿闍梨の百首に劣らめやと
天保甲午綠秀
柳亭種彦敬白
董斎盛義書
現代語訳
契沖の『富士百首』は、富士山が高くそびえるように、数ある作品の中でもひときわ抜きん出て世に現れています。一方、東潮の『不二百句』は、美しい雲の中に隠れた富士のように、今ではその姿を見ることができません。
※契沖「真言宗の僧で古典学者・歌人である」
※和田東潮「江戸前期の俳人」
さて今、新たに富士を百の景色として描こうとしているのが、前北斎翁です。
富士山は、ただ一つ独立してそびえ、多くの山々の峰よりも高く抜きん出ています。それと同じように、北斎翁の絵もまた他から抜きん出ており、その名声の高さといえば、千五百丈をも超えるほどでしょう。
※前北斎「以前は北斎と名乗っていた者」
北斎の画集は諸国に広まり、それを大切に所蔵している人は非常に多くいます。その名声は、富士山を眺めることのできる十五州だけにとどまるものではないでしょう。
富士山には十の異なる名前があると『秘蔵抄』に記されています。そして北斎先生も、これまで何度も名前を変えてきました。それを数えてみれば、富士の十の名にも負けないほどになるでしょう。
富士にも多くの名前があり、北斎にも多くの名前がある。何か不思議な縁でもあるのでしょうか。北斎は、長い年月にわたってこの富士山を愛してきました。
近くでは田子の浦から富士を見上げ、三保の崎からもその姿を眺めました。しかし、こうした名所から眺める富士は、雲一つない月や満開の花を見るように、あまりにも整って美しいため、かえって趣が足りないと感じたのでしょうか。
そこで北斎は、遠く富士見原まで杖をついて出かけ、汐見坂では乗り物を止め、柳の細い枝越しに景色を眺め、風にそよぐ稲の葉の向こうに富士の高い峰を仰ぎました。
さらに、逆巻く波が岩に砕け散る大海原や、白い雲が谷を埋め尽くすような、羊の腸のように曲がりくねった山道にも分け入りました。険しいところを登り、危険な場所を下りながら、実際に目にした景色を写し取ってきたのです。
そうして描かれたこの一巻には、北斎翁の精神そのものが込められています。
世の中には、里近くの山から木々の茂った奥山まで数えきれない山々があるように、絵本もまた数多くあります。しかし、この『富嶽百景』は、その数多くの絵本という山々の頂よりも、富士山のようにひときわ高くそびえ立つことでしょう。
それは、阿闍梨・契沖の『富士百首』にも、決して劣るものではないでしょう。
天保五年三月
柳亭種彦 謹んで記す
董斎盛義 書
※柳亭種彦「江戸時代後期の戯作者」
※董斎盛義「江戸時代後期の能書家・書家」
葛飾北斎『富嶽百景』初編
『富嶽百景』二編・三編を見る
『富嶽百景』は初編・二編・三編の全三編からなります。

































