東遊あずまあそび』は、寛政かんせい11年(1799)に刊行された、浅草菴市人あさくさあんいちんど撰、葛飾北斎かつしかほくさい画による絵入狂歌本えいりきょうかぼんです。国立国会図書館所蔵本では『狂歌東遊きょうかあずまあそび』の書名でも知られています。

版元は蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろう。初代蔦屋重三郎は寛政9年(1797)に亡くなっているため、『東遊』が刊行された1799年には、耕書堂こうしょどうは後継者へ引き継がれていました。

本書には、浅草菴市人が選んだ多数の狂歌きょうかとともに、北斎が描いた29図の挿絵が墨摺すみずりで収められています。描かれているのは、江戸の有名な寺社や景勝地だけではありません。料理屋、呉服店、海苔屋、本屋、市場、漁師や職人の仕事など、江戸で暮らす人々の姿も細かく描かれています。

3年後の享和きょうわ2年(1802)には、『東遊』から狂歌の部分を除き、挿絵を集め直して順序を改め、色摺にした『画本東都遊えほんあずまあそび』が刊行されました。そのため、『東遊』と『画本東都遊』には同じ29図が使われていますが、並び順は同じではありません。

ここからは、寛政11年(1799)に刊行された『東遊』そのものに挿絵が現れる順番に、北斎が描いた29図を見ていきます。

北斎が『東遊』に描いた江戸29図

1.芝神明宮しばしんめいぐう 春景

『東遊』の29図は、芝神明宮の春景色から始まります。現在の芝大神宮しばだいじんぐうにあたる神社で、江戸の人々から「関東のお伊勢さま」として親しまれていました。

北斎が見せているのは社殿だけではありません。神社の周囲には町があり、そこを人々が行き交っています。江戸の名所とは、建物だけを切り取って眺めるものではなく、人が訪れ、町の暮らしと重なり合う場所だったことが、最初の一図から伝わってきます。

葛飾北斎『東遊』芝神明宮 春景

2.三囲神社みめぐりじんじゃ

隅田川すみだがわ東岸の三囲神社を描いた図です。神社は隅田川の堤より低い場所にあり、川の側から見ると、鳥居や境内と堤との高低差が印象的に見える場所でした。

現在の神社だけを見ても分かりにくい、江戸時代の隅田川、堤、神社の位置関係を想像できるところがおもしろい一図です。このあとにも隅田川周辺の景色が続き、北斎が川とその両岸を一つながりの地域として見ていたことが分かります。

葛飾北斎『東遊』三囲神社

3.隅田川 春雪しゅんせつ

題名どおり、春の雪に包まれた隅田川です。桜や新緑のような分かりやすい春ではなく、冬が戻ってきたような一日の景色を選んでいるところに目を引かれます。

同じ隅田川でも、季節や天候が変わればまったく違った風景になります。北斎は「どこを描くか」だけではなく、その場所がある瞬間にどのように見えたのかまで絵にしようとしていました。

葛飾北斎『東遊』隅田川 春雪

4.今戸里いまどのさと

今戸いまどは、浅草から隅田川に沿って北へ進んだ場所です。ここでは大きな寺社や有名な店が主役になるのではなく、川沿いに広がる土地そのものが見どころになっています。

建物が密集する江戸の中心部とは違い、少し町を離れると空や川の広がりを感じられる場所がありました。現在は市街地になった今戸が、かつては江戸の外れを感じさせる土地だったことも、この図から想像できます。

葛飾北斎『東遊』今戸里

5.待乳山まつちやま

待乳山は、隅田川西岸にある小高い丘です。現在では周囲の建物に囲まれていますが、江戸時代にはここへ上がることで、隅田川や対岸まで見渡すことができました。

この図を見るときは、待乳山そのものだけではなく、「ここから何が見えたのか」を想像すると分かりやすくなります。高い建物が少なかった江戸では、現在なら小さく感じる丘でも、町や川を見渡す立派な展望場所になりました。

葛飾北斎『東遊』待乳山

6.請地松師うけじまつし

名所から一転して、松を扱う人の仕事が描かれます。形よく整えられた松は、自然にその姿になったわけではありません。人が枝を整え、手入れを続けることで、美しい形が作られていきます。

完成した庭や名木ではなく、その景色を作る側の人を描いているところが、この図の見どころです。『東遊』では、このような職人の仕事も寺社や名所と同じように、一つの江戸の風景として扱われています。

葛飾北斎『東遊』請地松師

7.牛島中田屋うしじまなかだや

牛島の中田屋は、三囲神社近くの隅田川堤にあった川魚料理屋です。とくに生簀いけすの鯉が有名で、「葛西太郎かさいたろう」と呼ばれる鯉が評判だったと伝えられています。

つまりこの絵は、単なる料理屋の記録ではなく、隅田川へ遊びに来た人なら知っている評判の店を描いたものです。景色を眺め、寺社に参り、その土地の料理を食べるところまでが江戸の行楽でした。

葛飾北斎『東遊』牛島中田屋 原本ページ1

葛飾北斎『東遊』牛島中田屋 原本ページ2

8.梅屋鋪うめやしき

春の行楽といえば桜を思い浮かべますが、江戸では梅も大切な見物でした。梅屋鋪の図は、花そのものとともに、季節が変わったことを感じるために人々が出かけた場所を描いています。

『東遊』には後に飛鳥山あすかやまの桜も登場します。梅から桜へと移っていく江戸の春を、29図を順に見ながら追うこともできます。

葛飾北斎『東遊』梅屋鋪

9.佃白魚網つくだしらうおあみ

ここで描かれるのは名所見物ではなく、佃島つくだじま周辺で行われた白魚漁です。白魚は江戸城にも納められ、佃島の漁師たちはその漁と深く関わっていました。

川や海を美しい背景として見るのではなく、そこを仕事場として生きる人々がいる。水辺の都市・江戸を考えるうえで、景色と生業なりわいが一つになった興味深い図です。

葛飾北斎『東遊』佃白魚網

10.王子稲荷社おうじいなりしゃ

王子稲荷は、江戸から少し足を延ばして訪れる郊外の名所でした。このあとには料理屋「海老屋」、さらに後には飛鳥山も登場します。

三つを別々の名所として見るより、王子へ出かけ、神社へ参り、食事をし、周辺を歩く一日の行楽として考えると、当時の人々が王子をどのように楽しんでいたのかが見えてきます。

葛飾北斎『東遊』王子稲荷社

11.王子海老屋おうじえびや

神社の次に描かれるのが料理屋であるところがおもしろい図です。江戸の名所案内というと、寺社や美しい風景ばかりを想像しますが、実際の行楽には食事も欠かせません。

王子へ出かけた人にとって、評判の料理屋へ立ち寄ることも目的の一つでした。「名所を見ること」と「名物を味わうこと」が別々ではなく、一日の遊びとしてつながっていたことが分かります。

葛飾北斎『東遊』王子海老屋

12.鎧匠よろいしょう

今度は武具を作る職人です。1799年版『東遊』を整理した資料では「鎧匠」とされていますが、後の『画本東都遊』では「鐙匠あぶみしょう」とする資料もあり、図名には違いがあります。

題名には注意が必要ですが、図の中心にあるのは職人の仕事です。完成した武具を勇ましく見せるのではなく、それを作る日常の作業へ目を向けているところに、北斎の観察のおもしろさがあります。

葛飾北斎『東遊』鎧匠 原本ページ1

葛飾北斎『東遊』鎧匠 原本ページ2

13.日本橋にほんばし

日本橋は江戸を代表する名所ですが、橋を記念物のように静かに描いた絵ではありません。橋を渡る人、荷を運ぶ人、川を使う船が行き交っています。

日本橋のおもしろさは橋の形そのものよりも、陸と水の交通がここで交わり、大勢の人と物が絶えず動いていたことにあります。江戸の中心が「動いている場所」として描かれています。

葛飾北斎『東遊』日本橋

14.駿河町越後屋するがちょうえちごや

ここでは、町を代表する「店」が名所になります。駿河町の越後屋は、通りを挟んで大きな店舗が並ぶ江戸を代表する呉服店でした。

越後屋は「現金掛け値なし」の商法でも繁盛し、その大きな店と人のにぎわい自体が江戸の見どころになりました。寺や橋と同じように、巨大な商店そのものが名所になるところに、大都市・江戸らしさがあります。

葛飾北斎『東遊』駿河町越後屋

15.無題(長崎屋ながさきや

この図には題名が記されていませんが、日本橋本石町ほんこくちょうにあった「長崎屋」を描いた図として知られています。

長崎屋は、長崎から江戸へ参府したオランダ商館長一行が滞在する定宿でした。オランダ人が江戸へ来ると、幕府の医官や西洋の学問に関心を持つ人々も訪れ、海外の知識に触れる場所となりました。

普通の江戸の町並みの中に、突然「外国」と直接つながる場所が現れます。外国人を見る機会がほとんどなかった時代の人々にとって、その存在自体が珍しい見ものでもありました。

葛飾北斎『東遊』無題 長崎屋 原本ページ1

葛飾北斎『東遊』無題 長崎屋 原本ページ2

16.十軒店雛市じっけんだなひないち

この図で注目したいのは、北斎がどこから場面を見せているかです。通りの外から雛市を眺めるのではなく、店の中から表のにぎわいを見るような構図になっています。

十軒店では桃の節句を前に雛人形ひなにんぎょうを売る市が立ちました。人形だけを紹介するのではなく、「店の中にいる人が外の市を見る」感覚まで描いたことで、読者自身が江戸の店先にいるように感じられます。

葛飾北斎『東遊』十軒店雛市

17.無題(神田紺屋かんだこうや

この図には題名がなく、後世の資料では「紺屋」、研究によっては「紫屋」と呼ばれることがあります。

紺屋こうやは、布や糸を染める職人や店です。注目したいのは名称以上に、染物を作る仕事が一図を与えられていることです。色鮮やかな着物が町を歩くまでには、布を染める職人の作業があります。北斎は完成した衣装の美しさではなく、その手前にある仕事へ目を向けています。

葛飾北斎『東遊』無題 神田紺屋 原本ページ1

葛飾北斎『東遊』無題 神田紺屋 原本ページ2

18.新吉原しんよしわら

新吉原は遊廓であると同時に、江戸の流行や出版文化とも深く結び付いた場所でした。華やかな表側だけを見ると特別な遊興地に見えますが、そこで働き、暮らす大勢の人々を抱えた一つの町でもあります。

『東遊』の版元・蔦屋重三郎も吉原との深い関わりから出版活動を広げていきました。そのような出版文化の背景を考えると、『東遊』の中に新吉原が登場することにも意味が見えてきます。

葛飾北斎『東遊』新吉原

19.品川汐干しながわしおひ

潮が引いた品川沖では、普段は海になっている場所へ人が降りて歩くことができました。水面だった場所が一時的に広い干潟へ変わる、その変化自体が見どころです。

現在の東京湾岸からは想像しにくい景色ですが、江戸の人々にとって海は遠くから眺めるだけの場所ではありません。潮の満ち引きに合わせて中へ入り、遊ぶことのできる身近な場所でもありました。

葛飾北斎『東遊』品川汐干

20.元結匠もとゆいしょう

元結もとゆいは、髷や日本髪を結ぶための細いひもです。現在では品物そのものを知らない人も多いため、この図は「何を作っているのか」が分かるだけでも、江戸の日常が一つ見えてきます。

毎日髪を結う社会では、元結を作る職人も欠かせません。大きな建物や有名な商品ではなく、目立たない小さな生活用品から江戸の暮らし全体を見せている図です。

葛飾北斎『東遊』元結匠 原本ページ1

葛飾北斎『東遊』元結匠 原本ページ2

21.絵草紙店えぞうしだな

29図の中でも、とくにおもしろい一枚です。描かれているのは、この『東遊』を出版した蔦屋重三郎の耕書堂です。

店頭には山東京伝さんとうきょうでんの著作や狂歌本などの宣伝札が並び、奥には錦絵にしきえも見えます。商品を見る客の姿もあり、江戸の本屋がどのような場所だったのかを細かなところまで見ることができます。

つまり、読者が手にしている『東遊』を出版した店そのものが、『東遊』の中に登場していることになります。江戸の出版文化を紹介すると同時に、版元自身の店を見せる広告のようにも読める図です。

なお、店の奥にいる人物を初代蔦屋重三郎とする説明もありますが、初代は1797年に亡くなり、『東遊』の刊行は1799年です。そのため、人物については本人と断定せず、「耕書堂の店内を描いた図」と見るのが安全でしょう。

葛飾北斎『東遊』絵草紙店 原本ページ1

葛飾北斎『東遊』絵草紙店 原本ページ2

22.佃住吉社つくだすみよししゃ

先に「佃白魚網」で漁師の仕事を見たあと、同じ佃島の住吉社が登場します。一つは仕事、もう一つは信仰です。

佃島を単なる景勝地として描くのではなく、魚を捕って暮らす人々がいて、その土地を守る神を祀る社がある。二つの図を一緒に見ることで、一つの土地に暮らす人々の生活が立体的に見えてきます。

葛飾北斎『東遊』佃住吉社

23.飛鳥山あすかやま

飛鳥山は、江戸を代表する桜の名所です。重要なのは桜の美しさだけではなく、そこが庶民も楽しめる行楽地だったことです。

町を離れ、丘へ上り、花を見ながら時間を過ごす。現在の花見とよく似た楽しみ方が、すでに江戸にありました。先に登場した王子稲荷や海老屋と合わせると、王子から飛鳥山へ遊びに出かける一日の姿も見えてきます。

葛飾北斎『東遊』飛鳥山

24.日暮里にっぽり

日本橋や越後屋のような都市の密集した景色から離れ、日暮里では江戸郊外の開けた景観が主役になります。江戸の人にとって、町を離れて広い景色を見ること自体が娯楽でした。

現在の日暮里は東京の市街地に完全に取り込まれています。そのため、この図は日暮里がかつて町外れの行楽地だったことを想像する手がかりにもなります。

葛飾北斎『東遊』日暮里

25.上野うえの

上野は寛永寺かんえいじの門前を中心に、多くの人が訪れた江戸有数の行楽地でした。参詣だけでなく、春には桜を楽しみ、周辺を歩く人々も集まりました。

現在も上野は人が集まる場所ですが、「寺社へ参り、花を見て、散策を楽しむ大きな空間」という性格は江戸時代から続いています。上野という場所全体が江戸の名所だったことを感じさせます。

葛飾北斎『東遊』上野

26.浅草海苔あさくさのり

「浅草海苔」という江戸名物を、海苔だけではなく、それを売る店まで含めて描いた図です。浅草田原町三丁目にあった海苔商・中嶋屋平左衛門なかじまやへいざえもんの店とされています。

北斎は商品そのものを大きく見せるのではなく、二階建ての店、看板、店内の様子まで描いています。名物が有名になるには、それを作り、運び、店で売る人がいます。「江戸名物」を商売の風景として見ることのできる一図です。

葛飾北斎『東遊』浅草海苔 原本ページ1

葛飾北斎『東遊』浅草海苔 原本ページ2

27.浅草祭あさくさまつり

祭の日には、普段と同じ町が一日だけまったく違った姿になります。浅草祭では神輿みこしが町を巡り、隅田川を舟で進む行事も行われました。

建物や山のようにいつでもそこにある名所ではなく、人が集まり、動くことで一時的に生まれる景色まで『東遊』は取り込んでいます。場所だけではなく、そこで起こる出来事もまた江戸の「名所」だったことが分かります。

葛飾北斎『東遊』浅草祭

28.無題(小町桜こまちざくら

この図には題名が記されていませんが、資料では「小町桜」として整理されています。

『東遊』には梅屋鋪、飛鳥山、そして小町桜と、花を題材にした図が何度も現れます。しかし、同じ花見でも場所によって景色は違います。名木として知られる一本の桜もまた、人々がわざわざ見に出かける江戸の名所になりました。

大きな寺社や広大な景勝地だけでなく、一本の木まで名所になり得るところにも、江戸の人々が身近な風景を楽しんでいた様子が表れています。

葛飾北斎『東遊』無題 小町桜 原本ページ1

葛飾北斎『東遊』無題 小町桜 原本ページ2

29.浅草蓑市あさくさみのいち

29図の最後に置かれているのは、豪華な寺社でも大店でもなく、蓑を売る市です。みのは藁などを編んで作る雨具で、体にまとって雨や雪を防ぎました。

『東遊』が最後まで見せるのは、「有名な江戸」と「普通に暮らす江戸」が分かれていない世界です。神社、桜、料理屋、職人、商店、市場が同じ29図の中に並びます。生活用品を売る市で終わるところにも、この本の性格がよく表れています。

葛飾北斎『東遊』浅草蓑市

『東遊』29図から見えてくる江戸

29図を続けて見ると、『東遊』が単なる江戸の観光名所集ではないことが分かります。日本橋、上野、飛鳥山、隅田川といった有名な場所が登場する一方で、越後屋、料理屋、海苔屋、絵草紙屋、市場、白魚漁、元結作り、染物など、人々の商売や仕事も数多く描かれています。

北斎が描いた江戸は、立派な建物だけでできた町ではありません。神社へ参詣する人、桜を見る人、料理を食べる人、本を買う人、魚を捕る人、物を作る職人など、多くの人々が動き続けることで成り立つ町でした。

寛政11年(1799)の『東遊』では、こうした北斎の絵に浅草菴市人が選んだ狂歌が組み合わされていました。そして享和2年(1802)には、狂歌を省き、29図を集め直して彩色した『画本東都遊』として再び出版されます。

後に『冨嶽三十六景ふがくさんじゅうろっけい』などで風景画の名手として知られる北斎ですが、『東遊』を見ると、それより30年以上前から、景色だけでなく、そこで暮らし働く人々まで注意深く観察していたことが分かります。

有名な名所と、その隣で続く普通の暮らし。その両方を一緒に描いたところに、『東遊』のおもしろさがあります。

参考資料

国立国会図書館デジタルコレクション『狂歌東遊』
東京都立図書館デジタルアーカイブ『東遊』『画本東都遊』
島根県立美術館「浅草庵市人・撰 葛飾北斎・画 東遊」
『私本 葛飾北斎ハンドブック 改訂版 総目録』